UNLOCK

あらすじ

東京郊外の古びたマンション「第三荘」には、事故物件として有名な一室があった。
かつてそこで孤独死した中年男性が長らく発見されず、
室内に染み付いた異臭と、不可解な現象から、入居者が定着しないという。

そんな部屋に、ある日一人の男が引っ越してくる。
フリーライターの南條誠(なんじょうまこと)。
彼は『事故物件に住んでみた』という連載企画のため、あえてその部屋を借りたのだ。

しかし引っ越し初日から、奇妙なことが起こり始める。
夜中、キッチンから響く水音。
開けた覚えのないクローゼットの扉。
そして、ドアノブにぶら下がる鍵のケース。

その鍵は、開けようとしても数字が合わない。
しかしある夜、夢の中で誰かがこう囁いた。

「1、5、5、3……開けてくれ」

翌朝、その番号を試すと、鍵はカチリと音を立てて開いた。
中には、一枚のメモと、使いかけのライター、そして写真が一枚。
写っていたのは、笑顔の男と、若い女性だった。

メモにはこう書かれていた。
『彼女を探して。あの時、俺は間違えた』

南條はライターとしての好奇心から、この写真の真相を追い始める。
すると浮かび上がってきたのは、
かつてこの部屋に住んでいた男と、同棲していた恋人の失踪事件。
そして、未解決のまま封印された"ある過ち"の痕跡。

南條が真相に近づくほど、現れる現象は激しくなっていく。
壁に浮かぶ赤い手形。
夜な夜な浴室から聞こえるすすり泣き。
そして、再び動き出す“彼”の気配――。

やがて、南條は気づく。
この部屋に巣食っていたのは、ただの怨霊ではない。
そこにあったのは、愛と罪と後悔が絡み合った、人間の"記憶"だった。
物語のテーマ
- 真相を“解く(UNLOCK)”ことで、自らも“解かれていく”主人公の心。
- 幽霊とは、忘れられた記憶と向き合わされる存在。
- 「見てはいけない過去」と「見なかったことにされた真実」

第一章:鍵の音

「ほんとに、ここに住むんですか?」

不動産屋の男が、鍵のついた封筒を差し出しながら眉をひそめた。

「はい、むしろここじゃないと意味がないんで」

南條誠はあっさりと答え、封筒を受け取る。 男は一瞬黙り込み、視線をそらした。

東京郊外、駅から徒歩12分。 築34年の鉄筋マンション「第三荘」は、見た目こそ古いが立地は悪くない。 だが、ひとつだけ決定的な難点がある。

――304号室。

5年前、この部屋で50代の男性が孤独死。 死後2週間以上発見されず、死因は病死とされたが、当時の部屋の様子は「異様」だったと近隣住民の噂は絶えなかった。

南條はフリーライターだ。 「事故物件に住んでみた」という連載企画を立ち上げ、実際に暮らしながら記事を書く。 編集部は難色を示したが、南條自身が熱望し、ようやく許可が下りた。

鍵を回すと、カチャリと乾いた音が響いた。

部屋は想像以上に普通だった。 リフォームも施されており、畳は新しく、クロスも貼り替えられている。 けれども、妙な違和感が残る。 空気が重い。湿っている。

「窓、開けよう……」

換気をしながら荷物をほどいていると、玄関ドアの内側に何かがぶら下がっているのに気づく。

小さな黒いダイヤル式の鍵ケース。 不動産屋から受け取った鍵とは別物。

「これ……なんだ?」

ケースには4桁のダイヤルロックが付いている。 適当に回しても開かない。

その夜、簡素な夕食を済ませ、風呂を上がると、どこからともなく「水の音」が聞こえた。

キッチンの蛇口が、ゆっくり、ほんの少し開いていた。 ポタ……ポタ……と落ちる水。

「え……?」

締めたはずだ。

無言で蛇口を閉め、照明を落として布団に入る。

が、深夜2時。 夢の中で、誰かが耳元で囁いた。

「……いち、ご、ご、さん……あけてくれ……」

南條は飛び起きた。 額には汗が滲み、心臓がばくばくと跳ねている。

起きてすぐ、玄関に向かい、鍵のケースを手に取った。

1……5……5……3。

カチリ。

音がした。

ケースの中には、使いかけのターボライター、一枚の写真、そして折りたたまれた紙片。

写真には、笑顔の中年男性と若い女性。

メモには、震えるような筆跡でこう書かれていた。

『彼女を探して。あの時、俺は間違えた』

第二章:兆し

翌朝、南條はコーヒーを淹れながら、ライターと写真をじっと眺めていた。 どこかで見覚えのある顔だと思ったが、記憶は曖昧だった。

「まずは、部屋の過去を調べるか……」

そうつぶやいて、南條はPCを開いた。 しかし、検索しても目立った事件記事は出てこない。 事故物件情報サイトには“室内での孤独死”とだけ記され、詳細は伏せられている。

ふと、背後で何かが動いた気配がした。 振り返る。 誰もいない。

クローゼットの扉が、わずかに開いていた。

「……閉めたよな?」

気のせいかもしれない。 そう思いながらも、南條はスマホで動画を回し始めた。 “何か”を捉えるために。

その夜、異変は加速する。

夜中2時。 突然、インターホンが鳴った。 液晶を見ると、誰もいない。 だが、音は続く。 チリリリ……チリリリ……。

南條は玄関のドアに近づき、そっと覗き穴を覗いた。

廊下には、人影のようなものがぼんやりと揺れていた。 立ち尽くしている。 が、その影には……足がなかった。

思わず息を飲んだ瞬間、インターホンの音が止み、気配がスッと消える。

「……見間違い、か?」

翌朝、録画したスマホの動画を確認する。

そこには、夜中のクローゼット前で、無人の室内に揺れる“何か”が映っていた。

黒い影。 そして、その背後に、かすかに浮かび上がる文字――

「あけて」

南條の背筋に冷たい汗が流れた。

これまでの経験上、ただの“気のせい”では済まないことを、彼は知っていた。

第三章:侵食

南條は、あの写真の女性が誰なのかを探るため、図書館の古い新聞記事や事件記録を洗い始めた。

「同棲していた女性が突然いなくなった…?」

5年前の地元紙に、小さな失踪記事を見つけた。 名前は伏せられていたが、第三荘の住所と一致する。

記事によれば、当時の同居人だった男性が「喧嘩をしたあと、彼女が姿を消した」と警察に通報していた。 事件性は薄いと判断され、そのまま捜査は打ち切られたらしい。

南條は写真の女性の顔を思い浮かべながら、図書館の静寂の中に自分の呼吸音だけを感じた。

その日以来、体調が優れなくなる。 夜になると喉が渇き、汗が止まらなくなる。 食欲もなくなり、眠っても悪夢ばかり見るようになった。

夢の中には、濡れた髪の女が出てくる。

暗い部屋。 濡れた床。 自分の足元から、どこか遠くでポタ……ポタ……と水の音が響いてくる。 その音をたどると、浴室の扉がわずかに開いていて、中には誰かがうずくまっている。

その背中に、見覚えがあった。

「彼女……?」

声をかけようとした瞬間、女がこちらを振り返る。 顔は……見えない。 髪で、完全に覆われている。 けれど、その“目”だけが、黒い穴のように開いていた。

「――みてる……」

南條は叫び声を上げて目を覚ました。

胸の鼓動が尋常ではない。

汗で濡れたTシャツを着替えようとして、ふと自分の腕に爪痕のような赤い線が浮かんでいるのを見つけた。

「……夢じゃないのか?」

この部屋に来てから、自分がどこまで“現実”にいるのか分からなくなってきていた。

言葉では説明できない、何かが、自分の中に入り込んでくる――そんな感覚。

部屋の隅。 ふと視線を向けると、昨日までなかったはずの“紙切れ”が落ちていた。

拾い上げると、裏にこう書かれていた。

「次は、あなたの番」

第四章:交錯

南條は、写真の女性についての手がかりを得るため、役所で住民票の履歴を取り寄せた。 その中に、5年前まで「加賀美涼」という名の女性が同居人として登録されていたことが記されていた。

その名前を手がかりにネット検索をかけると、数年前の掲示板に、以下のような投稿が残っていた。

「第三荘に住んでた“カガミさん”、急にいなくなったらしい。彼氏が何か隠してるって噂……」

名前を見た瞬間、南條の頭に“断片的な情景”が閃いた。

――夕暮れの部屋。 涼という女性が、こちらを見て微笑んでいる。

「誠、あんたってさ……ほんとは何考えてるか分かんないよね」

「……え?」

頭を振る。 そんな記憶はない。 会ったことも、話したこともない。 だが、その声も表情も、“懐かしい”と感じてしまう自分がいた。

南條は図書館に戻り、地元紙をさらに洗った。

すると、「加賀美涼」という名前がかすかに記載された、行方不明者リストの記事を発見。 その横に貼られた白黒写真を見た瞬間、南條の手が震えた。

彼のポケットにある、あの写真の女性と、まったく同じ顔だった。

「どういうことだ……」

涼の記憶が、またひとつ、脳裏に浮かぶ。

――口論していた。 彼女が泣いていた。 南條が怒鳴っていた。 そして――浴室のタイルに、水が滴る音。

「そんなはずはない……俺は、この部屋に住むの、初めてのはずだ」

南條は壁に手をつき、深く呼吸を整えようとした。 が、その手元の壁紙に、うっすらと赤い指の跡が残っていた。

「記憶にあるのは、いつの“俺”なんだ?」

自分が見ている過去は、本当に“他人”のものなのか? それとも――自分自身が封じてきた、かつての“罪”なのか?

床に落ちた一枚の紙切れに気づく。 まただ。

そこには、ひとことだけ、手書きの文字があった。

「戻ってきたね、誠」

南條は、その名前を見つめたまま、しばらく動けなかった。

第五章:誘い

その夜、南條は再び夢を見た。

廊下の奥、ぼんやりと明かりが灯る部屋に、一人の女性が立っている。 濡れた髪、白いワンピース。 その顔は写真の涼と同じだった。

「……涼、さん……?」

呼びかけると、彼女は何も言わず、静かに背を向け歩き出す。 足音はなく、ただ影だけが床を滑るように進んでいく。

南條は無意識のうちに後を追った。

辿り着いたのは、古びた机と椅子がひとつ置かれた狭い部屋。 机の上には、数枚の新聞記事と取材メモが散らばっている。 その中の一枚――見覚えがあった。

5年前、自分が書いた記事だった。

「第三荘304号室、近隣住民の不安」

事故物件特集の一部として書いた短い記事。 そこには、前の住人である男性の名前が載っていた。

――高瀬慎一。

記事の中では、彼を「近隣住民との交流を避ける不気味な男」として描いていた。

「……俺、あの時……」

取材で感じた違和感を深く掘らず、“読み物として面白くする”ために脚色した。 その結果、高瀬は地域で孤立し、仕事も失ったと後に聞かされた。

涼は机の向こうからじっと南條を見ていた。 その瞳は、怒りでも恨みでもなく、何かを訴えるような静けさをたたえている。

「……高瀬さんは……殺してないんだな」

涼は微かに頷いた。

次の瞬間、机の上の新聞記事がひとりでにめくれ、裏面に赤い文字が浮かび上がる。

「真犯人は、この部屋にはいない」

南條は息を呑んだ。 涼はゆっくりと指先を持ち上げ、壁の一角を指差す。

そこには、剥がれかけた壁紙の下に、錆びた金属の扉が隠れていた。

「ここに……何が?」

振り向いた時には、涼の姿はもうなかった。

だが、部屋の空気が変わっていた。 湿った重さが、次の“解錠”を迫っているようだった。

第六章:隠し扉

翌日、南條は涼が指差した壁の前に立った。

古びた壁紙を剥がすと、そこには確かに金属製の小さな扉があった。 南京錠がかかっている。

ポケットから、あの黒い鍵ケースを取り出す。

「……まさか」

1、5、5、3。

カチリ。

南京錠が外れ、扉が開いた。

中は暗く狭い空間で、古い木箱がひとつ置かれていた。 開けると、埃まみれの中から出てきたのは――日記帳だった。

革表紙のその日記には、「高瀬慎一」と名前が書かれている。

ページをめくると、几帳面な筆跡で日々の記録が綴られていた。

『涼はよく笑う。自分にとって唯一の救いだ』

『最近、涼の様子がおかしい。外で誰かと会っているようだ』

『誠という名前を口にしていた。心配だ』

南條の手が止まる。

「……誠?」

それは、自分の名前だった。

続きを読む。

『彼女は何かを隠している。だが問い詰める気にはなれない』

『今日、彼女が出かけたまま帰ってこなかった。自分のせいかもしれない』

日記はそこで途切れていた。

頭の奥がじんじんと痛む。 記憶の断片が勝手に浮かび上がってくる。

――駅前の喫茶店。涼と話す自分。彼女の笑顔。

――夜道。誰かに追われる涼の背中。

――第三荘の前で立ち尽くす高瀬の姿。

「……俺は、涼と知り合いだったのか……?」

その瞬間、背後で木箱が倒れる音がした。

振り返ると、扉の奥に、ぼんやりと立つ人影があった。

それは、高瀬慎一だった。

だが、その表情は驚くほど穏やかだった。

「……彼女を、見つけてくれ」

そう言った途端、影はふっと消え、室内に残ったのは涼の写真だけだった。

南條はその写真を握りしめ、心に決めた。 ――この事件の真実を解く。誰のためでもなく、自分自身のために。

第七章:囁き

高瀬の日記を読み終えた翌日、南條はマンションの前で一人の老婦人に声をかけられた。

「あなた、この部屋の新しい人でしょ。……前の人とは違うみたいね」

老婦人はしばらく南條をじっと見つめ、ためらいがちに続けた。

「昔ね、この部屋の女の子と、若い男が口論してたのを見たことがあるの。夜だったけど、よく覚えてる」

南條の胸がざわつく。

「……その男って、高瀬さんですか?」

老婦人は首を横に振った。

「違うのよ。背は高かったけど、高瀬さんじゃない。……名前を呼んでたわ。l『誠』って」

その瞬間、背中を冷たいものが走った。

「誠」というのは、自分の名前だ。だが、5年前、この街に来た記憶はない。涼とも会った覚えがない。

「……その女の子、どんな顔でした?」

老婦人はしばらく考え、ぽつりと答えた。

「綺麗な子だったわ。……でも、あんたに、どこか似てた」

南條は息を呑んだ。似ている? 血の気が引く感覚と同時に、脳裏にまたあの夢の光景がよみがえる――

涼が微笑む顔。その奥に、見覚えのある幼い日の面影。

老婦人はそれ以上語らず、足早に去っていった。

残された南條の耳元で、かすかな声が囁いた。

「思い出して、誠」

その声は、涼のものだった。

第八章:記憶の鍵

老婦人の「誠」という言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
あの瞬間、背筋を冷たいものが走った感覚を、南條は忘れられなかった。
取材メモを何度も見返すが、自分が涼と口論した覚えはない。
だが、老婦人の表情は嘘を言っているようには見えなかった。

夜、布団に入ると、耳元で誰かが自分の名前を呼ぶ。
──誠。
涼の声だ。
薄暗い夢の中で、彼女はまっすぐ南條を見つめ、静かに口を動かす。
「鍵を開けて」
言葉と同時に、視界の端に古びた金属の輝きが見えた。

目を覚ますと、机の上に小さな真鍮の鍵が置かれていた。
見覚えのない鍵。冷たく鈍い輝き。
握った瞬間、手のひらにひやりとした感触が染み込む。
よく見ると「#203」と刻まれている。

203号室──このマンションの一室だ。
今は空き部屋として封鎖されていると聞いたことがある。
南條はいてもたってもいられず、管理人室を訪ねた。

「この鍵、203号室のものじゃないですか?」

管理人は鍵を見て、眉をひそめた。
「どこでこれを……いや、その部屋は長い間開けていません。前の住人が突然いなくなって、荷物は家族が全部持ち出しました」

「その住人……若い女性だったとか?」

管理人はしばらく黙った後、渋々うなずく。
「ええ。綺麗な子でしたよ。でも、ある晩からぱったり姿を見せなくなった」

胸の奥に冷たい重りが落ちる。
南條はさらに問いを重ねる。
「……203号室の彼女の名前は?」

管理人は答えず、視線を逸らした。
「これ以上は……やめたほうがいい」

その拒絶の裏に、妙な含みを感じた。
だが南條の脳裏では、老婦人の言葉と涼の顔、そして自分に似たあの面影が重なっていく。

実家に戻った南條は、物置を漁り始めた。
埃をかぶったアルバム。
ページをめくる指先が止まる。
そこにあったのは、自分の幼い頃の写真──そして隣に立つ、小さな少女。
あどけない笑顔の奥に、どこかで見たことのある瞳。
写真の裏には、ボールペンでこう書かれていた。

「誠・涼」

喉がひゅっと詰まる。
母の古い手紙も見つかった。
そこには走り書きで、こう記されていた。

「涼のことは、まだ小さい誠には話せない」

呼吸が浅くなる。
空白の記憶。
転勤で暮らした短い期間、思い出せない顔や声。
そのすべてが、涼へと繋がっていく。

夜、部屋に戻ると再び囁きが聞こえた。

──思い出して、誠。

南條は、203号室の鍵を握りしめたまま、身動きが取れなかった。

第九章:封鎖室

夜更け。
管理人室の明かりが落ち、廊下に人の気配が消える。
南條はポケットの中で、真鍮の鍵を強く握りしめた。
203号室の前に立つと、蛍光灯の光がわずかに揺れ、廊下が異様に静まり返る。
耳の奥で、雨音すら遠ざかっていく。

鍵穴に差し込む。
金属が擦れる微かな音が、やけに大きく響いた。
カチリ──
ドアのロックが外れた瞬間、背中に冷たい風が這い上がる。

扉を押し開けると、長年閉ざされていた空気が、重く流れ出てきた。
埃の匂いと、どこか鉄のような冷たさが混ざっている。
室内はほとんど家具がなく、広いはずなのに暗がりが奥を飲み込んでいる。
ただ一つ、壁際に古びた鏡台がぽつんと残されていた。

足を踏み入れ、鏡に目をやる。
そこに──涼がいた。
白いワンピース姿。
表情は柔らかいが、瞳の奥に深い影を宿している。
南條は思わず振り返ったが、背後には誰もいない。
視線を戻すと、鏡の中の涼は、まだこちらを見つめていた。

鏡台の引き出しに手をかける。
重く、湿った音を立てて開くと、中には封筒と一枚の写真。
写真には、幼い自分と涼が並んで写っていた。
笑っているのに、どこか切なげな表情。
封筒には、震えるような字で「会いたい」とだけ書かれている。

指先が写真の角に触れた瞬間、記憶の断片が弾けた。
夏の縁側で、涼がアイスを半分差し出してくれる。
夜、庭先で二人、線香花火を見つめている。
そして──泣きながら何かを言おうとして、言葉を飲み込む涼の顔。

「まだ全部じゃない」

鏡越しに、涼が静かに囁く。
次の瞬間、部屋の温度が一気に下がった。
背後のドアが、ゆっくりと、しかし確実に閉まり──重い音を響かせて施錠された。

南條は振り返らず、鏡の中の涼を見つめ続けた。

第十章:真実の扉

鏡の中の涼は、動かない。
その瞳だけが、南條の奥底を覗き込むように揺れていた。

「全部……思い出して」

低く、柔らかい声。
だが、その響きは心の奥に重く沈み、呼吸を乱す。
南條は写真と封筒を胸に抱え、鏡台から一歩下がった。
その瞬間、足元の床板が微かに沈み、乾いた軋みが響く。

視線を落とすと、木の継ぎ目がわずかに浮いている。
指で押すと、薄い板がずれて隙間が現れた。
そこには、埃まみれの小箱。
開けると、中には古い日記帳が入っていた。
表紙には「涼」の文字。

ページをめくる。
子どもの字で、誠と過ごした日々が書かれている。
海に行ったこと、かくれんぼをしたこと、二人で秘密の歌を作ったこと……。
しかし、日記の後半は急に筆跡が乱れ、こう綴られていた。

「誠は行ってしまう。もう会えない。でも、私は待つ」
「誠は私を忘れるの?」
「誰かが誠に嘘をついている」

ページの最後は、滲んだインクでほとんど読めなかった。
それでも、かろうじて一行だけが目に飛び込む。

「誠は、私の兄だから」

指先が震えた。
涼と自分が兄妹──。
記憶の奥で、封じられた光景がわずかに開く。
泣きじゃくる涼を抱きしめ、必ず迎えに行くと約束した自分。
そして、それを引き裂くように現れた、見知らぬ男の背中。

「誠……」
鏡の中で涼が、かすかに笑った。
だがその笑みは、安堵ではなく、諦めの色を帯びていた。
「もう時間がない」

次の瞬間、203号室全体が低くうなるような音を立てた。
壁紙の隙間から、冷たい風が吹き込み、電球が明滅する。
鏡の表面に、もう一つの人影がにじみ出る──それは、あの見知らぬ男の顔だった。

南條の背筋に、再びあの隙間風が通り抜けた。

第十一章:UNLOCK

鏡の中の見知らぬ男は、南條を真っ直ぐに見据えていた。
その眼差しは冷たく、同時に何かを訴えているようでもある。
涼が囁く。

「この人が、私を連れて行ったの」

記憶が一気に開く。
あの日──夏祭りの夜。
約束の場所で涼を待っていた自分の前に、この男が現れた。
「涼が倒れた」と言われ、焦って男の後を追った。
辿り着いたのは、見知らぬアパートの一室。
そこで涼は、うつろな瞳で自分を見た。
「誠……私、行かなきゃ」
止める間もなく、男が涼の手を引き、奥の部屋へ消えていった。
その後の記憶は、途切れている。

「彼は、私の父だったの」
涼の声が震える。
「でも、私には……兄がいるって、教えてくれなかった」

南條の心に、何十年分もの空白が流れ込む。
自分は幼い頃、母親に連れられて別の家へ移り、涼とは離れ離れになった。
その間に、母は「涼は他人」だと繰り返し言い聞かせた。
そうして、記憶の奥に鍵をかけたのだ。

「誠……私は、ずっと待ってた」
涼の目から涙が落ちる。
「でも、お父さんが死んで、この部屋に一人残された。
 そして……鍵が、閉まったまま、開かなかった」

南條は、ポケットの中の真鍮の鍵を握りしめた。
それは涼が生前、唯一持っていた自室の鍵だった。
彼女が生きた証を開くための、最後の鍵。

ゆっくりと鏡台の前に跪き、鍵を差し出す。
「もう、閉じ込めない」
涼は静かに頷き、手を伸ばす。
指先が鍵に触れた瞬間、室内の空気が柔らかく揺らぎ、鏡の中の景色が白く滲んだ。

光が収まった時、鏡には誰も映っていなかった。
ただ、窓がわずかに開いており、そこから暖かい風が入り込んでいた。
隙間風ではない──優しい、春の風。

南條は鏡台に鍵を置き、深く息を吐いた。
もう、胸の奥に絡みついていた鎖はない。
部屋を出て振り返ると、203号室のドアが静かに閉まり、カチリと音を立てた。
だが今度は、それは“施錠”ではなく、“解錠”の響きに聞こえた。


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