月夜の木箱
生温かい夏の夜の空気が、古い日本家屋の隙間から忍び込み、虫の声がやんだ。
その静寂が、キヨさんの内なる不安をさらに増幅させた。
深夜二時を回った丑三つ時……急に、隣の部屋から、カタカタと何かを叩くような音が聞こえてきた。
「こんな時間に、誰かおるんかいな…?」
キヨさんはそう呟きながらも、気になって耳を澄ませた。
カタカタ…カタカタ…
規則的な音は、次第に大きくなっていくようだった。まるで、誰かが必死に何かを打ち付けているようだ。
カタカタ…カタカタ…
怖くなったキヨさんは、布団を頭から被った。心臓がドキドキと音を立てる。
どれくらいの時間が経っただろうか。カタカタという音は、いつの間にか止んでいた。代わりに聞こえてきたのは、かすかな鼻歌だった。
それは、キヨさんが何十年も前に亡くした夫、ケンゾウさんの鼻歌だった。ケンゾウさんはいつも、得意な木工仕事をしている時に、この鼻歌を歌っていた。
キヨさんは慌てて布団をめくり、壁に耳を近づけた。確かに、ケンゾウさんの少し音痴な、あの鼻歌が聞こえる。
涙がじんわりと滲んだ。もう何年も聞いていなかった、懐かしい鼻歌。
キヨさんから恐怖が消え、懐かしさに誘われるがまま隣の部屋に続く襖を開けた。
部屋には、誰の姿も見えなかった。
ただ、部屋の隅の古びた文机の上に、小さな木の箱が置かれているのが見えた。それは、ケンゾウさんが若い頃にキヨさんのために作った、手作りの小物入れだった。
キヨさんは、箱を持ち上げ、ゆっくり開けた。中には、色褪せた便箋が一枚入っていた。
『キヨへ
いつもホンマにありがとうな。お前と一緒になれて、わしは世界一幸せもんや。この箱は、わしの気持ちや。いつまでも大切にしてや。
ケンゾウより』
手紙の文字は少し震えていたが、ケンゾウさんの優しい想いが、ひしひしと伝わってきた。
さっきのカタカタという音は、ケンゾウさんがこの箱を作っていた時の音だったのかもしれない。そして、あの鼻歌は、ケンゾウさんがキヨさんのことを思いながら、鼻歌を歌っていたのかもしれない。
虫の声が響き、心地良い夜風が頰を優しく撫でた。
ケンゾウさんは、今もこうして、そばにいてくれているのかもしれない。心は、温かい気持ちへと変わっていった。
夜空に浮かぶ月が、そっと見守るように、
キヨさんを照らしていた。
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